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伊達家家臣の大塚氏と大塚城


 寄稿者略歴 watanabeto
 渡邊敏和(わたなべ としかず)
  昭和31年、川西町上小松生まれ。長井工業高校卒業。平成17、 18年、川西町獅子頭展実行委員長。 置賜民俗学会理事。
 


                      文・写真 置賜民俗学会 渡邊敏和

一、はじめに

 山形県置賜地域のほぼ中央にある川西町には、中世の城館が多く点在する。町中心部の旧小松町から北部に位置する大塚に、土塁の一部が残る城跡(大塚城)がある。
 下長井郷大塚の大塚城は、伊達四十八館の一つで、大塚左衛門尉宗朝(宗頼の誤りか)の居城である。城主の大塚氏から大塚城と呼ばれ、近くの中大塚の林崎館には、林崎某が住んでいたという。
 戦国時代末まで、地名としての大塚は見られない。岡の在家、門の目、菊田、荒井などの地名が所領安堵状にあり、この一帯を大塚というのは米沢藩になってからである。
 大塚氏は、在地の国人領主で、伊達家家臣として伊達家文書などの古文書に記載があった。それらとともに、ほかの文献、資料等を調べて明らかにしてみたい。

二、 大塚城

 大塚城は、その北部に松川(最上川)の断崖を自然な防塁として利用した盆地中央に位置する大塚字天神館にある城館で、主郭(本丸)と副郭(二の丸)に区画された、東西二百メートル、南北二百八十メートルと大きな城跡である。鎌倉期の大塚因幡守親行が築城したと伝える。現在は二カ所に土塁が残るのみで、ほかは宅地、畑となっている。昭和四十四年(一九六九)三月二十四日に川西町の指定文化財となった「牛谷家の門」は、貞亨三年(一六八六)、大塚城から移転したものであると伝えられている。近くの大塚字林崎にあった天正以後、伊達政宗の家臣の居る所であるという林崎館について、興味深い図面が米沢藩の御用絵師岩瀬家に伝えられてきた。

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「牛谷家の門」(旧大塚城の大手門)

 その図面に加えられている説明には、
 「天正七年(一五七九)政宗公ヨリ被成下候御證文相見え候林崎之館之図也 右享保年中(一七一六〜三五 )色摩翁助方政目にて大塚へ参候ニ付、間数改絵図にて絵(描)き候處ニ頼之候て如此也 岩瀬半兵衛」と記してあった。林崎館の図面では、北に松川(松川古来館の要害)があり、館は南北八十間(百四十四メートル)余ほどで、本丸(東西七十間余)と、二之丸(東西五十間余)に土居(土塁)と堀で分けた東西百二十間(二百十六メートル)余の周囲を、土居と堀を回し、西側に入口を設けてある。入口の傍を大塚村の町(城下町 )、二之丸の南西角には当時(享保頃)の寺屋敷があり、松川との間が二町ほどあると記されており、享保頃には、館跡が明瞭に分かった。この林崎館の位置が、松川との距離から大塚城の城跡とほぼ同じ場所である。戦国時代、このあたり一帯を広く林崎と呼んでいたのだろうか。
 伊達「天文の乱」の功労者の一人である大塚将監に、伊達晴宗が与えた知行安堵状には、「 大塚下総守名跡相続につき下総守天文十一年(一五四二)六月までの知行の通り少しも残さず下しおき候、すなわち林崎館めぐり共に前々の如く諸役さしおき候・・」とあり、このことから林崎館が大塚城と考えられた。

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曹洞宗稲荷山高徳寺

 林崎館に描かれる寺屋敷は、明応年間( 一四九二〜一五〇〇)に勅特賜宝光智証禅師、曇英恵応大和尚を開山として創建された曹洞宗寺院の高徳寺かもしれない。その開基は大塚氏の家臣といわれる牛谷監物貞俊である。高徳寺門前近くには、「牛谷の門」が保存されている。また、明治二十年(一八八七)頃まで、米沢藩の年貢米を貯蔵する米倉(三間梁の十数間)が数棟、高徳寺の東手にあった。
      
三、 伊達氏家臣の大塚氏

 伊達氏家臣の大塚氏は、仙台藩が天明年間(一七八一〜八九)に編さんした「伊達世臣家譜」巻四の三(一族)によれば、次のようである。
 大塚氏は、本姓が藤原である。出自については詳しく分からない。大織冠藤原鎌足公の後裔(鎌足―不比等―房前―真楯―内麻呂―冬嗣―良房―基経―忠平―師輔―兼家―道長 )、関白道長公九世の子孫と伝えられる大塚因幡守親行を初代として、羽州(現在の山形県)置玉(置賜)郡長井荘大塚城に住み、それに因み氏としたという。(だが中世に大塚という地名は確認されてしない。)
 初代 大塚因幡守親行(初め左衛門尉と称す)
    (この間不明である)
十四代 左衛門佐宗頼
     宗頼次男和泉頼賢は別に家を立て、現在の当主は大塚善右衛門頼充(中間番    士、俸禄百八十石)
十五代 宗頼長男摂津守道頼
十六代 道頼の子伯耆高頼(初称孫次郎のち左衛門と称す)
    天正年間(一五七三〜九二 )伊達政宗から七十石の田を賜り、一族に列せら    れる。
十七代 高頼の子左衛門重頼(初め源市郎と称す)
    新たに三十石の田を賜り、相続した七十石と併せ百石となる。
十八代 重頼の子左衛門意頼(初め大郎作を称す)
    寛永年間(一六二四〜四四 )経界の余田二十石を受けた。(以下略)
とある。
 
四、 古文書に見る大塚氏

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大塚城跡の土塁

 永正六年(一五〇九)八月十一日、伊達尚宗が越後出陣の際に出した国分胤重軍勢催促廻文写によれば、その中に「大塚殿」と記載があった。この頃まで大塚氏による一円支配が行われていたと考えられる。同十二年(一五一五)十二月二十六日に、伊達稙宗から大塚下総守宛の所領安堵状(伊達家文書)が出されている。
 それには、
  就□乱忠節之儀、親之者被成配分之地、
 一、へつ所の郷惣領職、一、稲荷堂在家一宇、
 一、次郎右衛門在家一宇、一、大谷地・北谷地・桧木谷地、一、上塚田・下塚田千苅   、
 一、松森方の屋敷并□手作千苅、
 一、薬師の神社三百苅、
 一、荒井之内蔵助在家一宇、管(菅カ)屋敷つゝミの田兵庫作千苅、各々任本状、於   末代不可有相違候、仍為後日證状如件、
    永正十二年十二月廿六日 宗(稙宗)
     大塚下総守殿
とあり、「□乱忠節」とは、永正十一〜十二年に最上氏との合戦を指すものと思われる。  
 大永三年(一五二三)十二月十五日、伊達稙宗から松岡土佐守に宛てた所領安堵状(伊達家文書)に、大塚姓の大塚与□□衛門と、同四郎右衛門が見られる。
 「(前略 )一、大塚与□□衛門所より買地、下長井之庄大塚之郷内、とうほう在家之内、田畠并安藤屋敷、同四郎右衛門成敗之地、安藤屋敷之内、[ ]同[ ]屋敷之内五百苅、(後略)」とある。大塚郷内の「とうほう在家」「安藤屋敷」などが見える。
 同七年(一五二七)四月二十二日、稙宗から大塚信濃に安堵状(伊達家文書)が出されている。それには、
 一、大塚美濃所より買地、下長井之庄[ ]之郷内、美濃の居在家之内、大塚信濃守買候二貫文之所、同藤右衛門買候[ ]文之所相除候て、相残候所一宇□(不)残、并あらやニ田八百苅、はたけ五百地、合而年貢六貫文之所、何も任本状、永代不可有相違候、仍為後日証状如件、
   大永七年四月廿二日      稙宗
      大塚信濃殿
とあり、大塚美濃、大塚藤右衛門、大塚信濃の一族三人の名前が記されている。   
 また、同七年九月五日、稙宗から大塚信濃守に所領安堵状が出された。それには、大塚美濃よりの買地美濃在家以下が、また大塚新右衛門よりの買地として大耕屋在家、山屋敷などが安堵されている。
 天文十三年(一五四四)、「伊達正統世次考」巻之九上に、
 三月廿(二十)七日。晴宗公賜フ書ヲ於佐藤十郎兵衛。済四郎右衛門ニ。云ク急啓ス。雖辛労ナリト上リ往キ於梁川ニ。以相馬窺望ム筆甫ヲ之事ヲ。告テ之ヲ大塚将監ラ。可以成ス其約束ヲ也。定テ山中ノ者可入守ル。其中汝等居テ于彼ニ勿レ以疎怱スルコト矣。
記されている。
 同十八年(一五四九 )極月(十二月)の「熊野願文写」(米良文書)に、大塚将監が記されていた。
     陸奥伊達之住、在地出羽之内上長井庄米沢
     中野常陸介
     藤原朝臣宗時
     大塚左近将監
     藤原朝臣縄頼
   天文十八年己酉極月一日
で、大塚左近将監藤原朝臣縄頼と正式な名前が現れた。
 同二十二年(一五五三)正月十七日に伊達晴宗が出した安堵状を纏めた「晴宗公采地下賜録」に大塚姓を持つ家臣に次のような安堵状が発給されている。
  八〇、天文十一年(一五四二)六月迄のちきやう(知行)のとをり、不可有相違也、大塚助大(太)郎殿

 一九三、就大塚下総守名跡相続、下総守天文十一年六月まて知行之通、少も不残下置候、仍林崎たてめくり共に、如前前諸役さしおき候、各知行永代、大塚しやう(将)監

 一九四、前々よりの本領并買地共不可有違乱候、御東江かし置申候地共、御一世い(以)後、如前々可致知行事永代、 大塚しやう(将)監
 一九五、上長井庄すもゝ(李 )山の郷、関、つなき( 綱木 )、遠藤又七知行の通不残、同又七分、桑山ニ一間、一うるし(漆)ニ一間、江俣の郷の内、金沢かつさ(上総)知行之通、名取郡南方之内、遠藤監物分一間、いたて(伊達)郡ひつほ(筆甫 )、桜田図書分不残、伊達西根塩目(塩野目)の郷、一えんとう在家、一さんかう田、一神社二貫文、せうし寺、一堀内在家、一塩目(塩野目)の郷惣成敗、湯村の郷内、一竹の内、一さる内、一さ竹在家、増田の郷、一しはた在家、一くろす在家、舞田の郷、一きたの在家、一とつとり在家、信夫庄北かう(郷)留(富)塚の内、一あらやしき、一あをき在家、一富塚在家、一中屋敷、一かミまりこ、一つか田、一なかたき、一経(カ)田、一北はらい、一寺屋敷、一かミまり信夫庄こし(腰)のはま(浜)の郷、一さ野内在家、一たかせ在家、一たんふくろ内在家、一とひん田、平田の郷、一小三郎在家、信夫北かう(郷)宮代の郷の内、一せとかは在家、伊達郡西根かひ(貝)田の郷、一しつの在家、石森の内、一なへ屋敷、一津しま在家、一きたハら在家、一きり田仁貫三百文、一もちそへ(持添)陣夫、信夫庄上野寺の内、一和田在家一間、各下、大塚しゃう(将)監

一九六、下長井庄いさ(伊佐)沢の郷あし(芦)沢より年具十五貫文、一四郎兵衛やしき(屋敷 )、一大石在家三分一、一あくと在家一間、是三ケ所より三貫文、合而十八貫文うるし二盃らう二きん、館へ上申候へく候、又芦沢より十五貫文上候て、其外所務、一河前在家、一岩穴在家、一いさ沢の郷惣成敗、あかり物、各是等皆々為恩下、大塚しやう(将)監

一九九、其方知行の通、皆々可為守護不入、若又於向後諸役免許之判相破候事候者、大塚下総前々知行之通、いたて(伊達)郡西根塩目(塩野目)の郷、信夫庄北郷、冨塚新さゑもん知行の通、冨塚是等之所、永代不可有相違候、諸役可為直納候、大塚しやう(将)監

三一六、伊たて(達)飯(半)田の内、桜た(田)四郎兵へ(衛)よりかひち(買地)、きり(切)田百かり(苅)、同屋しき(敷)しり(尻)、一きりはたけ百五十地、一まほり田百かり、同郡にしね(西根)大梅寺てさく(手作)の内、大梅寺よりかひち、きり畠五百地、きり田百かり、一あへ(阿部)きやうふ(刑部)よりかひ(買)地、きり田三百かり、各下、大塚しなの(信濃)

三六五、下長井白うさき(兎)ニほそや在家、成田の内、たうの腰在家、草岡の内、あかゝり在家、小国の内、いしたき在家、てのこ(手ノ子)に三間、黒沢に三間、大塚に居や(屋)敷一間、切田そへて、下小松に大こうや一間、中小松に二間、大塚の内、いぬ(犬)川在家、大塚あらひ(荒井)に五百文の所、や(屋)代庄桑山に一間、伊具庄きねま(木沼)に一ケ所、一かけり在家、伊たて(達)郡東根ほハら(保原)に三間、新田に一けん、泉沢に一けん、泉原に竹の内、そり町くら、彼三ケ所、各下、大塚しなの(信濃)          
とある。

そのほかに、大塚二郎右衛門が「晴宗公采地下賜録」の塩森かも左衛門安堵状に出てくる。
二二九、や(屋)代、ねもとよ四郎ふんのこさす、同庄きたあひのもり(北相ノ森)在け、いのうへちくせん在け、下長い(井)せきね(関根)の内、もりやいか(守屋伊賀)ふん(分 )、きやうき在け、同にしせきね在け、まこ平在け、同庄大つか(塚)の内、大つか(塚)二郎ゑもんのふん、をかの在け、ねもと与四郎ふん、大つか(塚)二郎衛門(分脱カ)ハせんせんにまかせ、しょやく(諸役)下置候也、塩もり(森)かも左衛門である。

 この「晴宗公采地下賜録」から天文十一年(一五四二)六月から七年に亘る伊達氏の内乱「天文の乱」で功績があったのは、伊達の一族である桑折播磨守、重臣の中野常陸介ら中野氏、牧野弾正左衛門と、国人領主であった大塚氏であった。
 天正二年(一五七四)頃に書かれた「伊達氏人数日記」(上下二分冊)には、下巻の最初に大塚殿が記され、その配下に鉄砲二人、弓四十六人、鑓二十人、馬上十人の合わせて七十八人の大塚党(家臣団)がいたと分かる。また、八十九番目に一族と思われる大塚佐渡に、鑓十八人、馬上一人の合わせて十九人が記されていた。大塚一円に多くの配下の家臣が居たと想像される。
 「貞山(政宗)公治家記録」巻之三に、
 天正十六年(一五八八)正月八日壬辰。大ニ雪降。御佳例心経会、千手院(字諱不知)執行ハル。畢テ御酒宴アリ。桑折播磨(宗長)・大町民部(諱不知)・大塚左衛門(諱不知)参上ス。大塚氏、姓ハ藤原ナリ。先祖、羽州置賜郡下長井荘大塚邑ニ住ス。因テ氏トス。家系不伝。一族ナリ。左衛門後ニ名ヲ伯耆ト改ム。其子ヲ左衛門重頼ト称ス。晴宗君ノ時、天文廿(二十)二年采地目録ニ大塚助太郎殿ト有リ。左衛門某カ旧名歟(か)、又其父ナル歟、不詳。
と記され、先祖のことが記されている。
「同治家記録」巻之十の天正十七年(一五八九)九月には、廿(二十)七日壬申。天気好、朝、小梁川三郎宗重・新田左衛門義綱・西大条駿河(諱不知 )・大塚左衛門(諱不知)ヲ饗セラル。
とある。
 また、年月不明(天正十六・同十七両年ころ)な「茶湯客座亭座人数書」(伊達家文書一―四〇〇)に、「客座、大塚左衛門尉殿 (以下略)」と記し、同じく「茶湯客座亭座人数書」(同文書一―四〇三)には「きやくさ(中略) 大塚卯松丸(以下略)」と二人の大塚姓の者が見える。

五、大塚氏の年表

 古文書などに書かれた大塚姓の武将と、知行地を年代順に纏めてみると、次のようである。
 永正六年(一五〇九) 八月、 大塚殿(大塚)
 永正十二年(一五一五)十二月、大塚下総守
 大永三年(一五二三)十二月、 大塚与□□衛門(大塚)
                大塚四郎右衛門(大塚)
 大永七年(一五二七) 四月、 大塚美濃(美濃在家)
                大塚藤右衛門
                大塚信濃
 大永七年(一五二七) 九月、 大塚美濃(美濃在家)
                大塚新右衛門
                (大耕屋在家など) 
                大塚信濃守
 天文十一年(一五四二)六月、 大塚助太郎(知行地)
 天文十一年(一五四二)六月、 大塚下総守(林崎館)
                大塚下総守相続 大塚将監
 天文十八年(一五四九)十二月、大塚左近将監縄頼
 天文二十二年(一五五三)一月、大塚将監(本領)
 天文二十二年(一五五三)一月、大塚将監
                (上長井庄李山郷等、名取郡、伊達郡、信夫庄他多                 数)          
 天文二十二年(一五五三)一月、大塚将監
                (下長井庄伊佐沢郷)       
 天文二十二年(一五五三)一月、大塚下総(故人)
                (伊達郡、信夫庄)
                大塚将監(同前)           
 天文二十二年(一五五三)一月、大塚信濃(伊達郡)
 天文二十二年(一五五三)一月、大塚信濃
                (下長井白兎・大塚等と、屋代庄、伊具、伊達両郡                 など) 
 天文二十二年(一五五三)一月、大塚二郎右衛門(大塚)
 天正二年(一五七四)ころ、  大塚殿
                大塚佐渡
 天正十六年(一五八八)一月、 大塚左衛門のち伯耆
                その子、大塚左衛門重頼
 天文十七年(一五八九)九月、 大塚左衛門
 天文十六・十七年ころ、    大塚左衛門尉
 天文十七年ころ、       大塚卯松丸
[天正十九年(一五九一)九月、伊達政宗、岩手沢へ]

六、大塚氏の家臣団

 天正十九年九月二十三日に、伊達政宗は太閤豊臣秀吉から奥州の葛西、大崎旧領を与えられ、代わりに故郷の長井(置賜 )、伊達などの本領を没収され玉造郡岩手沢城(のちに岩出山城に改められる)に移った。大塚氏の当主であった左衛門佐宗頼は、地元に伝えられる話や「大塚村史」などから、老齢のため政宗に願って武士を捨てて隠居して置賜に残り、男子二人が政宗に従って岩手沢城に移ったという。

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大塚城跡の土塁遠景

 そのことで大塚氏は一時的に断絶した事となり、息子二人が伊達家に新たな仕官する形をとり、俸禄も新たとなったと伝える。嫡男である大塚道頼の子高頼には政宗から伊達一族という高い格式を与えられたが、俸禄は最初七十石、その後何代かかかって百二十石になる。次男頼賢の子孫は百八十石である。大塚宗頼は、伊佐沢の大石や勧進代に移り、大塚監物金田平次郎などと名乗っていたという。
 天正二年(一五七四)頃の「伊達氏人数日記」に記される大塚殿の馬上氏名は、本人の外、漆山源左衛門、同二郎兵衛、平掃部、大塚隼人、牛谷蔵主(蔵人主か )、黒澤二郎左衛門、横山図書助、川俣与一郎、こん野二郎右衛門である。今も地元で住み、大塚氏に仕えていたと伝えられる平藤兵衛・清四郎(武士名・五郎右衛門 )、牛谷藤内(百姓名・甚五右衛門 )、黒澤万七、那須治兵衛、寒河江源兵衛(牛之助)らは、大塚地内各所に土塁、掘割の館を築いて住み、日常は農業を営みながら事ある時には家の子郎党を率いて戦場に赴いていた。慶長出羽合戦には、領主となった上杉景勝の重臣直江兼続に従って最上領に攻め入り、上杉方として最上義光の軍勢と戦った。このことから米沢藩となってから、郷士と呼ばれる在郷馬上の待遇を受けた。
 
七、まとめ

 今回、大塚氏と大塚城について文献・古文書などの史料を提示してきた。これらから、伊達時代は林崎館が城館の名称として用いられてきたことが判明した。しかし、大塚氏の居館ということで、一般的に戦国期には大塚城と通称されていたのだろう。江戸時代に入って米沢藩では、文献上に現れる林崎館と、実際の大塚城が独立した別個な城館と認識されてしまい、大塚氏が居住した大塚城と、林崎某が住んだ林崎館になったものだろう。
 大塚氏については、大塚氏を称した初代因幡守親行と十四代の佐衛門佐宗頼の間が不明だったが、古文書から十二代が下総守で、それを相続した左近将監綱頼が十三代となり、十四代の佐衛門佐宗頼に継承されたと考えられる。他の大塚姓の武将については、関係性が分かる古文書、資料がなく、良く分からなかった。
 
 引用・参考文献
「置賜文化」第二十八号 (置賜史談会 一九六一)
「高橋堅治先生遺稿集」(置賜史談会 一九六六)
「角川日本地名大辞典」6 山形県 (角川書店 一九八一)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」第1集
   (置賜地域・川西町) (山形県教育委員会 一九九五)
「東置賜郡氏」下巻 (東置賜郡教育界編 一九八二)
「米沢市史」古代・中世史料 資料篇1
  (米沢市史編さん委員会 一九八五)
「米沢市史資料」第十五号「伊達正統世次考」
            (米沢市史編さん委員会 一九八五)
「川西町史」上巻 (川西町 一九七九)
「置賜のお寺めぐり」(置賜日報社 二〇〇一)
 安部俊治「天正二年頃の伊達氏人数日記について」
           (「古文書研究」第四十九号 日本古文書学会)
「福島市史」第6巻 原始・古代・中世資料(資料編1)
           (福島市史編纂委員会 一九六九)

(2016年12月27日11:45配信)